(彩雲 第六話)握り締めていた手を左近は静かに開いた。
開いた手のひらに、今度はちらちらと幾つもの雪が舞い降りてきた。今一度、左近が視線を前に向けるとあの夜の光景が甦ってきた。
(綾之介・・・)
現実ではないとわかっていた。
だが左近には、目の前で蘭丸に羽交い絞めにされている綾之介の姿が見えていた。
「見ているがいい、仲間の無様な最期を!」
次の瞬間、蘭丸は綾之介の右脇腹に刀を振り下ろしていた。
残酷にも刃が体を貫き通しているのは遠目からでも間違いなかった。
左近の聞き分けられない声が闇に響く。
蘭丸はその声が暗闇に飲み込まれ、消え去るのを待っていた。
そしてゆっくりと腕の力を緩めると、束縛から解放された綾之介がこぼれるように地面へと落ちていった。
だがその時、思いもよらぬ光景を左近と龍馬は目にする事になる。
刃は綾之介ではなく、蘭丸の体を深々と貫いていた。
「馬鹿な・・・」
すぐに刃を伝って血が流れ、綾之介の体の上に滴り始めた。
うめいた蘭丸の声で意識が戻ったらしい。綾之介の体が動く気配を見せた。
「綾之介!」
左近の声に綾之介は素早く反応した。弾かれた様に体勢を整えると、流れるような動きで後ろ腰に挿していた妖刀を抜いた。
後に『何故そうしたのか』と聞かれても、恐らく答えは本人にも生涯わからぬ事だったろう。
そのまま蘭丸の胸部を正面から一気に貫いた。すると妖刀が今迄見せた事のない猛烈な光を自ら発し始めた。綾之介は勿論、左近と龍馬も腕で目を庇う程の凄まじい光を妖刀は放っていた。その爆発的な輝きは力となって蘭丸の体を吹き飛ばし、激しい音を立てながら大木へと叩きつけていた。
蘭丸は打ちつけられた木の幹に貼り付けられたかの如く立っていた。だが自分の体を支えることが出来なくなったのだろうか。
ずるりと足元から滑るように崩れ、地面へと仰臥していった。
そして、ぴくりとも動かなかった。
(死んだのか・・・)
本当にこれで終わったのか。三人が考えた時の事だった。
「おのれ・・・・・おのれぇ!」
蘭丸の怒号の様な声にはっとした。次は何が起こるのかと固唾を呑んでいると、浮遊体らしきものが清十郎から離れた。
(蘭丸!)
姿は人の形を成していないが、蘭丸である事はすぐにわかった。
そして「それ」は、物凄い勢いで綾之介目掛けて突進してきた。
「!」
(駄目だ!)
何をしても間に合わない。
綾之介は今度こそ命の終わりを覚悟した。
だがその時、蒼き光が蘭丸の幻のような体を貫いた。
地鳴りのような蘭丸の断末魔の声がした次の瞬間、その姿はちりじりに飛び、最後はまるで幻のように消え去った。
それが五百有余年を一人で生き永らえた蘭丸の、本当の最後となった。
蘭丸が消え去った後。実際は短い時間ではあったが、三人は時が止まったように動けなかった。
あまりにもあっけない幕切れだった。だが物事の終わりは、殊に自分達が不利な立場であればある程それは突然訪れる。
すぐさま信じる事が出来ないのも仕方のない状況といえた。
(鳴き声・・・)
綾之介は梟の鳴き声がしている事に気がついた。
いつの間にか座り込んでいた。右手は妖刀を握り締めたままだった。
鞘に戻す気になれなかった。清十郎を刺し、命を奪った妖刀を身に着ける事に恐怖と嫌悪感を覚えた。今は少しでも早く妖刀を手放したかった。だが握り締めた指が自分の意思に反して開かない。空いている左手で離そうとすると指が震えていた。力が上手く入らない指を使い、まるで引き剥がすように一本ずつ指を開いていった。
やっとの思いで妖刀を離す事が出来た時、何故か深い吐息がもれた。
そこまで来て気持ちが落ち着き始めたのだろうか。綾之介の瞳に、太刀と槍を手にして立っている左近と龍馬が写った。
体の構えが十分でない事はすぐにわかった。何より二人の眼は開かれ、驚きの表情を浮かべたままだった。
太刀は左近が自ら抜いたに違いない。そして龍馬も構えようとしていたのだろう。
だがあの蒼き光は、恐らく勝手に妖刀から放たれたに相違なかった。自分がそうであったように、左近も龍馬も目の前で起こった事が信じられないのだろう。
清十郎の体は綾之介達から少しばかり離れた大木にあった。動く気配は依然として全くない。
(傍に行かなければ・・・)
左近も龍馬も頭ではわかっているのだが体が動かない。綾之介も呆然として座り込んだまま見つめていた。
やがて意を決した龍馬が先に立ち、次いで左近が清十郎に近づいて行った。
接近するにつれて清十郎の様子がわかってきた。地面に張り出した大木の根を枕にするようにして横たわっている。
そして息を引き取ったとばかり思っていた清十朗の命の灯は消えていなかった。
何処を見ているのかはわからないが、閉じそうになる瞳を懸命に開けているのは一目瞭然だった。
「綾之介殿、こっちへ来るがじゃ」
龍馬が背を向けたまま綾之介を呼んだが本人は動けずにいた。
「清十郎殿が呼んどる、綾之介殿」
今度は振り返って、促すように綾之介を呼んでいた。
(生きている、清十郎殿が)
信じられない龍馬の言葉に綾之介は顔を上げた。
無論、清十郎は何も言っていない。だが何も言わずとも男同士気持ちは通じていた。左近が頷いて見せると綾之介はようやく立ち上がり、おずおずと近づいて来た。
その間に左近は自らの装束を脱いで清十郎の体に掛けた。傷は生々しく綾之介に見せるのは酷すぎる。また清十郎も望んでいない筈だ。
清十郎は恐らく自分の意思で己の体を刃で貫いたに違いない。
蘭丸の邪悪で強大な呪縛も、人の心を完全に支配する事は出来なかった。穏やかに見える清十郎の、その内面に秘めた強い心が蘭丸に打ち勝って綾之介を救ったのである。
近づいた綾之介が傍らに座り込むのを見て、清十郎は苦しい息の中から何かを言いたげだったが息苦しさで声にはならなかった。
龍馬と左近が静かに体を起こすと息づかいが楽になったらしい。
清十郎の表情が少しばかり和らいだ。それでも一息ごとに顎と肩が上下し、今にも途切れそうだった。清十郎は止まりそうになる呼吸を必死に繋ぎ止めていた。
そして喘ぎながらも声を発した。
「申し訳ない・・・」
「清十朗殿」
途端に綾之介は泣き出しそうになり顔を伏せた。泣こうにも、泣ききれない悲痛が胸の壁をせり上がってくる。清十郎は刃を向けた事を責めるどころか、この場になっても綾之介の事を気遣っていた。残された時間が少ない事は避けられようの無い事実で、本人も分かっている事だろう。最後の時が近づいてきている今でさえ、清十郎は怨み言の一つも漏らそうとしない。それどころか、何とかして綾之介を安心させようとしていた。
清十郎は『綾女』の心が自分以外の男に向けられている事はわかっていた。それでも彼女を今も愛おしく思う気持ちに変わりは無い。
男として、清十郎は彼女への一途な思いを貫きたかった。
綾之介は清十郎の思いが分かっているばかりに顔を上げる事が出来ずにいた。そして左近も龍馬も清十郎を直視する事ができなかった。もはや何も出来ない。かける言葉すら浮かばなかった。
静寂の中、清十郎の喘ぐ息づかいだけが残酷に響いている。
「頼みが・・・・」
清十郎の声に綾之介がはっと顔を上げた。だが、それ以上は言葉が続かなかった。せき込んだ清十郎の口から、血がしぶきとなって溢れ出た。
それでも綾之介へ語りかける事を止めようとはしなかった。
「昔のように・・・名を呼んでいただけないか」
清十郎らしい、ささやかな願いだった。
今生の最後の願いとわかった綾之介は、再び顔を伏せると肩を震わせ始めた。それでも、こぼれそうになる涙を必死に耐えて最後の願いに応えようとしていた。片手で静かに清十郎の手をすくい上げ、もう一方の自分の手をその上に重ねた。
そして静かに清十郎と視線を合わせた。
「清十郎、様・・・」
綾之介の声を聞いた清十郎は微かに口元をほころばせた。
穏やかな、いつもの優しい瞳の清十郎がそこにいた。
やがて瞼を静かに閉じると、首が力なく崩れ落ちた。
「清十郎殿・・・」
認めたくない現実が無情にも訪れた。
綾之介は震える涙声で恐々と呼びかけていた。
だが清十郎は何も答えない。
「清十郎殿!」
今度は切り裂くような声で綾之介は叫んでいた。
もう抑えることは出来ない。ついに堰を切ったように涙があふれた。清十郎の手を握り締め、自らの手の甲に額を乗せた綾之介は声を上げて泣き始めた。
龍馬が慰めようと、その背に手を伸ばしたが触れることが出来なかった。左近も震えながら泣き続ける綾之介を黙って見守る事しか出来ずにいた。
自らの手で清十郎を死に至らしめた綾之介を慰めるなど、無理な事だとわかっていたからである。
今はどんな言葉さえ、空しく響くだけに他ならない。
清十郎は、自身が夢にすら思わなかった形で生涯を閉じる事となってしまったことだろう。
蘭丸に乗り移られてからの日々。それは残っている自我との苦しみの連続であったに違いない。
だが清十郎の死に顔は、その様な苦悩を全く感じさせない穏やかなものだった。それが返って哀れさを増幅させ、悲しみを招いていた。
そして清十郎の死は三人のそれからに、中でも綾之介の心に大きな影を落とす事になっていくのである。
「一人で行かせてよかったんか、左近」
振り向くと、その声音と同じ表情をした龍馬がいた。
心配そうに、どこか不安げな面持ちで自分に視線を向けている。
綾之介は清十郎の死後、それまでと全く変わりなく日々を過ごしていた。剣術の指導を一日たりと休む事は無く、里の者から見れば、その様子はかえって痛々しく写っていた。
だがその眼差しと同情は綾之介にとってこの上なく辛く、清十郎への懺悔の念は日を追うごとに強いものとなっていたのかもしれない。
その苦しさから逃げたかったのかどうかはわからぬが、
『香澄の里へ、清十郎殿を連れて帰りたい』
綾之介が申し出たのは丁度その頃の事だった。
そして今、綾之介は香澄にひとりで戻っていた。
「戻って来ないのかもしれぬ」
「それでいいんか、御主は」
確かめるように龍馬が尋ねてきた。
その様子が先程と違い、表情と声に苛立ちが混じっている気配を左近は感じた。だが今は気付かぬふりをした方が良い様に思え、そのまま流す事にした。
「決めるのは綾之介だ」
「確かにそうじゃが」
そう答える龍馬の顔から険しさは消えてはいたが、納得したものとは言えなかった。
「龍馬殿、あいつにとって俺は妖魔と変わらぬ存在だったのかもしれないのだぞ。張り倒されもしたしな・・・」
左近はそこまで話すと自嘲した様に笑った。そんな左近を、龍馬は少しも表情を崩さずに見つめ続けていた。
(そうではない、と思うぜよ・・・)
龍馬が今しがたまで、左近に苛立った態度を取ったのには訳がある。
葉ヶ塊に残って欲しいと伝えて数日経ってからの事だった。
『里に残る御話、左近は何か言ってきましたか』
自分が一人で居る所を見計らい、そっと尋ねる綾之介の様子を見た龍馬は察した。
(綾之介殿は御主の事を思うとる)
だがそれを左近に伝えるのは御節介以外の何者でも無い事ぐらい龍馬にもわかっていた。こういう事は本人達が解決するしかない。
だから今日まで、そしてこれからも何も言うつもりは無い。
「それに、だ」
考えていると、あとは何も語る様子の無かった左近がおもむろに話しかけてきた。
「それに?」
「俺がついて行くのも、おかしな話だろう」
「そうかもしれんがの」
そう答えつつも龍馬の表情は冴えない。左近は龍馬が何を考えているのかわかっていた。
「大丈夫だ、あいつは自害などせぬ。そんなに弱い奴じゃない」
「それはわかっとる。じゃがな左近、結局わしらは・・・」
龍馬は次の言葉をすぐに続けることが出来なかった。
「わしらは・・・清十郎殿は勿論、綾之介殿も助けることは出来やせじゃった」
かって見せた事の無いほどの、苦しみに満ちた表情を龍馬は浮かべていた。
(御主にだけは・・・やらせたくなかった)
左近も口にはしなかったが、胸中では龍馬と同じ思いがあった。
清十郎の一件は、どれだけ悔やんでも取り返しなど出来る筈がない。
(生きている限り、この苦しみから逃れることは出来ない)
無論、左近と龍馬はその責めを己に課して生きる覚悟はできていた。
だが綾之介は自分達とは立場が違う。言葉では言い表せない、複雑な感情も入り乱れている事だろう。
そうしていると、いつの間にか雪が次第に強く降るようになっていた。
寒い筈なのに、戻ればいいのに二人とも黙って立ちつくしていた。
「積もるかもしれんの」
龍馬が白くなり始めた足元を見ながら声にした。
「そうだな」
「冷えるな、どうじゃ久しぶりに」
龍馬は顔を上げると杯を傾ける真似を見せた。
「龍馬殿」
左近は思わず苦笑いをした。龍馬の酒は嗜む程度で、好んで飲む方ではない。
龍馬が自分に気を使ってくれているのが左近はわかった。
「殿はいらんぜよ、長い付き合いじゃろが」
「御主は葉ヶ塊の頭領だ」
「その気持ちは有難いけんどな。二人の時はやめてくれんか」
親しみを込めて語りかけてくる龍馬に対し、自分の心がほぐれていくのを左近は感じた。
思えば龍馬とも色々あった。自分は口数が少ない上に、歯に衣着せぬ物言いをする。その為、日向に居る時から周囲と気まずい雰囲気をつくってしまう事があった。伊賀に居た時も同様で、龍馬に気を揉ませていた事も知っていた。
三人で伊賀を目指して旅をしていた時も同じようなものだった。
真面目で一本気な綾之介と話しをしているうちに、雲行きがあやしくなったのも一度や二度ではない。そんな時は決まって龍馬が和ませてくれた。
これまでの事を語るには、丁度いい機会なのかもしれない。
「承知した。では今宵は飲むとするか、龍馬」
「そういうことじゃ、戻ろうか」
だが帰る前にもう一度。挨拶をしてからと思い、互いに清十郎の眠る場所に目をむけた。短い時間であったにも関わらず、黄色い野菊は既に雪が隠し始めていた。それに気付いた龍馬は静かにしゃがみこむと、雪をそっと払いのけ始めた。
「すまんじゃった・・・清十郎殿。御主を助ける事が出来んかった」
龍馬は丁寧に雪を払い続けながら清十郎に語りかけていた。
だがその手が、何かが切れたように急に止まった。
「違う・・・」
「違う?」
「嘘じゃ、わしは嘘を言っとる」
よく見れば、うめくように声を出す龍馬の肩は震えている。
「助ける気など無かった。最初から、わしは清十郎殿を殺す事しか考えてなかったんじゃ」
時として、頭領には非情の選択が求められる。
龍馬の決断と行動は間違ってはいない。
里の長として、そこに暮らす人々を守る為に適切な判断を下し実行した。だがすべてが終わった今、龍馬は清十郎に対して自分が行った事を振り返り、後悔の念に駆られていた。
(龍馬・・・)
左近は何も言えなかった。清十郎を失って悲しむ綾之介にかける言葉が無かったように。今の龍馬を励まし勇気付ける言葉は、きっとこの世には存在しない事だろう。
暫くして左近がそっと肩に手をかけると、龍馬は忍ぶようにして鼻をすすり、静かに立ち上がった。
そして二人で清十郎の眠る場所に目礼し、黙ってその場を後にした。
初雪は夜も降り続き、翌朝には葉ヶ塊を白一色に変えていた。
いつもより遅く目覚めた左近が表に出てみると、雪は昇り始めた朝日に輝き始めようとしている時だった。
昨日は龍馬と遅くまで酒を酌み交わした。呑んだと言うよりも、ぽつりぽつりと話す間に口をつけた程度だった。これまでは綾之介が傍に居た。酒の席での綾之介は自分達の話を黙って聞いて、最後まで付き合ってくれた。綾之介の居ない酒の席は何とも寂しいもので、
いつもは陽気に話す龍馬の口を湿らせ、更には自分の口数も余計に少なくさせていた。
ふいに雪が枝から落ちる音がした。その方向に向かいの棟へと続く渡り廊下が見えている。
そこは香澄の里へ出立する前の綾之介と言葉を交わした場所だった。
『戻るのか』
綾之介に言った左近の言葉には二つの意味が込められていた。
一つは香澄へ戻ってしまうのか、もう一つは葉ヶ塊へ戻ってくるのか。
(臆病者だ)
自分をそう思った。
『戻って来い』
そう言えばいいのに、否定される事を恐れて言えなかった。
綾之介に対して臆病な所があることを左近は自覚していた。
左近の問に綾之介は何も言わなかった。だが何かを感じ取ったのだろうか。視線を外すと、そのまま黙って頭を下げて旅立って行った。
『今年の内には戻って来るんじゃないかの』
夕べ、龍馬は自分にそう言った。
左近も何となくその様な予感はしていたが、こればかりは憶測にすぎない。いずれにせよ、答えは綾之介が出す事だった。
結局、年内に戻って来るのではないかという二人の憶測は現実の事とはならなかった。
年が明けて既に半月が経とうとしている。
しかし、依然として綾之介は戻ってこなかった。
信濃の香澄の里に、ほっそりとした人影があった。
綾之介は雪に覆われた故郷を見て佇んでいた。
(どうしてこの様な事になってしまったのだろう・・・)
ほんの二年程前まで、確かにこの地に香澄の里があった。
小さな隠れ里ではあった。けれど皆で助け合い、穏やかに暮らしていた。あの日さえなければ自分もここで暮らしていた筈だった。
清十郎の妻となり、もしかしたら母になっていたかもしれない。
しかし目の前の何も語らぬ光景が綾之介に現実を見せつけていた。
今年の雪は少なく、大地の形まで隠してはいない。
豊かな恵みをもたらす畑は整然と、小さな盛り土がされている様子は雪の上からでも容易にわかる。
だが埋められているのは種ではない。すべて人の骨だった。
香澄に帰った綾之介が最初に目にしたもの。それは荒れ果てた土地と無残に散らばる人骨だった。
あまりの酷さに最初は逃げ出したい気持ちにもなった。だが、すぐにそんな自分を恥じた。
(私を置いて、他に誰が供養できる)
何とか雨露をしのげそうな住まいを見つけ、そこで暮らしながら一人で埋葬してきた。冬に向っている土は固く、鋤を持つ手に血豆が絶える事は無かった。寂しさと痛さをこらえ、ただ黙々と行った。見つけた全ての骨を埋葬できたのは数日前のことだった。
そして最後に清十郎の遺髪を埋めた。
(清十郎殿・・・)
綾之介は、あの夜の事を思い出していた。
無意識に抜いた妖刀。そして残酷にも自分は清十郎を貫いた。
その感触は今も手に生々しく残っている。
なぜ妖刀が光を放ったのか自分でもわからない。はっきりわかっているのは、自分がこの手で清十郎を殺したという事実だ。
蘭丸に乗り移られていたとはいっても、自分を大切にしてくれた人を葬り去ったのは紛れもない自分自身だった。
本当なら死ぬべきだろう。死んで、あの世で清十郎に詫びる事が唯一の償える方法だとはわかっていた。
でも出来ない。
香澄を出てから、仇討ちの戦いに身を投じていた頃は死に場所を探していた。もしかして、そのままの自分だったら本懐を遂げた後、この地に戻り死を選んでいたかもしれない。
でも今は出来ない。
自分は香澄忍群の最後の生き残りとして、果たすべき役割を見つけていた。
その事を葉ヶ塊に居る時は全く思い浮かばなかった。
清十郎を香澄につれて帰りたいと言い出したのは決して逃げではない。本当に清十郎が戻りたがっている様な気がしたからだ。
だがこうして、一人になってゆっくり考えたことにより自分のやるべき事が見えてきた。
(葉ヶ塊の中で、香澄を生き残らせる)
このまま自分が死ねば、香澄忍群はその流れを誰にも受け継がれる事無く終わりを迎える。それが影流の宿命なのかもしれないが、ある意味において蘭丸に負けた事になる。それだけは絶対に嫌だった。
それならば早く葉ヶ塊に戻ればいいのだが、あの男の存在が自分を躊躇わせていた。
(どうすればいいのだろう・・・)
綾之介の心は揺れていた。
左近が自分に抱いている感情は自惚れではないがわかっていた。
自分にしてみても、遠く離れた事で左近への気持ちが確かなものである事がわかった。
だからこそ葉ヶ塊に戻ったら、左近とこれまで同様に関わる事が自分は出来ないかもしれない。何らかの変化が起こる可能性を漠然と感じていた。
それが分かっているだけに、綾之介は動けずにいた。
だが、今のままを続ける事が出来ない事もわかっている。
『進めばいい。思い切って、すべてを振り切って動けばよいではないか』
そう考えた事もある。
けれど所詮、そんな割り切った行動が自分に出来る筈がなかった。
(清十郎殿・・・)
頭の中から清十郎の事が離れた日は無い。
清十郎の事を考えると、自分の思いのままに身を任せてよいのかと自責の念が湧き上がってくる。
供養は全て終わった。いつ出立してもよい様に準備は整えていた。
あとは自分の決心だけだった。
思いつめたまま地面を見ていると白い物が降ってきた。
香澄の里に、ふたたび雪が舞い降りてきた。
その夜、左近は綾之介と言葉を交わした渡り廊下の上で雪化粧をまとった庭を眺めていた。何者にも汚されることのない真っ白な雪が、月の光を浴びて周囲をほのかに照らしていた。
降り積もった雪を眺めていると、香澄の里へ綾之介が戻っていった日の事が再び左近の胸に甦っていた。
同時にその別れの場面は伊賀で自分が執った行動を、苦い感情を伴って思い出させていた。
『二度と会う事もないかもしれぬ・・・』
自分が別れ際に綾之介へ言った台詞だ。言われた方の、残される立場の者の胸中には一体どれ程の苦痛を与えた事だろうか。
(自分の信念を貫き通す事が、それこそが己の生き方だと信じていた)
だがそれは、今になって思えば何と勝手な振る舞いだったのだろう。
(俺が気づいている以上に、御主を戸惑わせ、傷つけたこともあったのだろうな)
今すぐ綾之介に会って侘びを入れたい気持ちにさえなっていた。
女々しいとわかってはいるが、それも偽りのない本心だった。
無論、この状況では出来る筈のないことも事もわかっている。
やり場のない後悔に、左近は詰まるような胸苦しさを覚えていた。
けれどいつまで佇んでも何も起こりはしない。その場を立ち去ろうと左近は歩き出した。
だが進み始めた足が動きを止めた。
遠方より新雪を踏みながら近づいてくる気配がする。
はっとして、左近は体を向けて目を凝らした。
振り向く際に安土以降も伸ばしていない髪が、まるで左近の心を表すかの如く小さく揺れた。
気配の主は雪に足をとられる事なく、真っ直ぐこちらへ向っている。
姿はまだ見えない。だが左近にはそれが誰なのか分かっていた。
やがて庭の端に人影が現れた。
外套を頭からすっぽりと被ってはいるが、華奢な体つきはその上からでもはっきりと見て取れる。歩みを止めると自分の方に顔を上げた。右手を頭に当て、手を後ろへと流す。すると頭部の布がその細い肩の上に音も無くふわりと落ちた。
その下から、待ち続けた人の顔が左近の瞳にはっきりと映った。
「ただいま戻りました」
久しぶりに見る綾之介の姿がそこにあった。
だがその表情は硬く、語りかけようとした左近の言葉を封じ込めてしまっていた。
その足で綾之介は帰って来た事を龍馬に報告した。
『龍馬殿に、帰ってきた事を早く知らせたい』
心配をかけていたのではないかと綾之介は気にしていた。
「無事に戻ってきて安堵したぜよ。もう少し早い帰りかと思うとったんで少々気になっていたんじゃ」
背筋を伸ばし顔を上げてはいる。だが伏し目がちで視線を合わせず、遅くなった事を詫びる綾之介に、龍馬は穏やかに声をかけていた。
一向に帰って来ない綾之介。
龍馬は里の衆の前では心配を口にしながらも、表面は冷静を装っていた。だが内心は少々の心配どころでは無い。左近は手に取るように龍馬の本心がわかっていた。
けれど綾之介に余計な気遣いはさせまいと、わざと落ち着いた様子で言葉を掛けているのは左近の目には明白だった。
「香澄では亡くなってから百日の間、弔う事になっているのです。事前に話しておけばよかったのですが、言葉が足りず申し訳無かったと思っています」
綾之介はそう言って再び頭を下げた。
「謝らんでもいいぜよ。こっちも先に聞いとけばよかったんじゃ。時に、香澄はどうなっとった綾之介殿?」
それに対し綾之介は表情を曇らせたが、すぐに答えを返し始めた。
「わかっていた、覚悟はしていたつもりでした。けれど・・・」
思い出し、沈む表情の綾之介は言葉を続ける事が出来なかった。
おそらく里は変わり果てた姿となっていたのだろう。それは龍馬と左近も容易に想像できた。これ以上の問いかけは綾之介を苦しめるだけとなる。休む事をすすめると綾之介もすぐに部屋を後にした。
綾之介が帰ってきたのに、何故か手放しで喜べない雰囲気があった。
清十郎の事は三人の心に、いまも整理されないまま影を落としていたのである。
翌日、左近が道場に向うと誰かが先に来て稽古をしていた。
中では一人、綾之介が木刀を振っていた。頬にかかる髪からは既に汗が雫となって落ちている。この寒さの中で汗ばんでいるのだから、かなり前からここで木刀を振っていたのは間違いない。
その一振りごとに何かを振り切りたいような、綾之介の声にならない叫びを耳にした様な錯覚を左近は覚えた。
すぐに気付かれないように黙ってその場を離れた。何か言えばよかったのかもしれないが適当な言葉が見つからなかった。それに中途半端な言葉かけは、綾之介に対して無礼以外の何者でもない事ぐらい左近にはわかっていた。
『綾之介殿は不器用な所がありまして・・・』
ふと、生前の清十郎の言葉が左近の脳裏に甦った。
あの時の清十郎は縫い物を例にして話したのだが、本心は性格の事を言いたかったのではないかと思えてきた。
(それだったら俺も同じだ)
綾之介は自分ほどではないが人に世辞を言う事は無く、どちらかといえば世渡り下手といえた。迷惑に思うかもしれないが、この点では似たもの同士だと前から左近は感じていた。
結局、器用でない二人の心は、それからもすれ違いを続ける事となってしまったのである。
綾之介が葉ヶ塊に戻ってきて、早くもひと月余りが過ぎた。
雪は相変わらず葉ヶ塊を白一色に染め、里に住む人々にとって、
春が待ち遠しい日々が続いていた。
そしてここに一人。
季節とは異なるが、なかなか春を迎えぬ二人に業を煮やしている者がいた。
「御主ら、その後はどうなっとるぜよ」
部屋に入って来たばかりの左近に座る暇も与えず龍馬が切り出した。
「どうなっているも何も、特に変わった事はない」
だが左近の内心が決して気色のよいものではなかった事は言うまでもなかった。
(やっぱりこの事か・・・)
『左近』
先刻、後ろから声を掛けられたので振り返ると、龍馬が部屋の中に手招きしていた。その表情は何とも形容しがたく、何を言いたいのか左近には察しがついていた。
だからと言って適当に誤魔化して逃げられる相手ではない。
自分が窮地に陥れられる罠が潜んでいるとわかっていながら、左近は龍馬の誘いを断る事が出来なかったのである。
龍馬の部屋は広くはないが、狭くもなかった。その部屋に入ったばかりの所で龍馬と左近は対峙していた。
「本当に何もないんか」
「あるわけ無いだろう。とにかく、まずは座れ、龍馬」
落ち着いて話すには立っているより座った方が良い。左近は障子を閉め、室内の中程まで進み座った。その動きを見て、龍馬も胡坐をかいて左近の前へと座っていた。
だが、すぐさま龍馬の指が膝の上で忙しく動き始めた。心に一物ある証拠だった。そして左近をちらりと見ると、情けなさそうに溜息をついた。
「じれったいのう」
「じれったいも何も・・・俺は嫌われてなくても、好かれてもないかもしれないのだぞ」
言いたくない事を言わされて、左近も少々不愉快に感じていた。
思わず自分の表情が不機嫌に変化するのを止められない。
だが龍馬はお構いなかった。それどころか、これでもかと左近を追い詰めてくる。
「左近、鳳来洞での勢いはどうしたんじゃ!」
今は左近が龍馬の勢いに圧されていた。普段の龍馬からは想像もつかない展開に、もしや酒が入っているのかと左近は思ったが、龍馬は呑んでいる風でもない。
極めて真面目な顔をして自分にたたみかけて来る。
「もう一遍、綾之介殿に話してみてはどうじゃ」
ずいと体を前に進めた龍馬が、低く落とした声で自分に話しかける。
それを受けて、左近も思わず体が後ろへ引いていた。だが左近にしてみれば、先程龍馬が口にした鳳来洞の一件は決して良い思い出ではない。しかも、次に龍馬が自分に要求している話の中身は色恋沙汰だ。その気はあっても、おいそれと綾之介に話せる訳がない。
それなのに、龍馬は自分に話せと迫ってくる。
(そんなに簡単な事なら・・・ここまで悩んだりするものかっ!)
「言ってどうとなる事でもあるまい!」
「言ってみん事にはわからんじゃろうが!」
二人とも自然に声が大きくなっていた。喧嘩をしている訳ではないのだがこの展開はまずい。そこまで言って二人は間をとり、どちらからともなく深い溜息をついていた。
そのわずかな沈黙の間、左近は逆転の妙案を思いついた。
龍馬には悪いが、戦う上で策略をめぐらす事は大事なことだ。
「人の事より御主はどうなのだ、龍馬」
その瞬間、龍馬の目が泳いだのを左近が見逃すわけが無い。
「何の事じゃ」
すでに龍馬の声は上ずっている。今度は左近がたたみかけた。
「多喜殿にきまっておろうが、いつまで待たせるつもりなのだ」
その一言は龍馬の勢いを止めるには十分だった。
「御主も痛いところを突いてくるの」
「まあな」
戦況は完全に逆転していた。左近は勝負あったと判断し、余裕を持って構えようとしていた。
だが、今日の龍馬はしぶとかった。
「わしの方は難しい事じゃないぜよ、心配は要らん」
「そうか・・・それは良かったな・・・・・」
先程までの左近の余裕は跡形も無く吹き飛んだ。
見事に返り討ちにされ、今は妙案どころか何も頭に浮かんでこない。
「綾之介殿は、こうと決めたら一歩も譲らん。一筋縄でいかん事はわかっとるじゃろ」
再び龍馬の攻勢が始まった。こうなったら受けて立つしか道はない。
「ならば、俺にどうしろと言うのだ」
半ば怒ったような口調で左近は問い返した。
「妖刀の錆になる覚悟で行ったら何とかなるじゃろうて」
「龍馬・・・」
左近は呆気にとられていた。その様子を見て龍馬も我に返ったらしい。
「すまん、性質の悪い冗談じゃったの。じゃけんどわしはな、綾之介殿は御主の事を嫌ってはない様に見えるがの・・・」
龍馬の話し方には、それ迄の勢いが失せていた。
綾之介が『左近は此処に残るのか』と気にしていた事を龍馬はいまだ伏せていた。左近にしてみても、龍馬が綾之介を娘か妹のように思い、また自分の事も案じているのはわかっている。先程までの話しも自分達の事を心配してそういう態度に出たのだろう。龍馬の様子に左近も落ち着きを取り戻し、普段の口調に戻っていた。
「実はな、正面から話した事は一度も無いのだ」
「左近?」
左近は困ったような微笑を龍馬に向けると、後は目を逸らして黙りこんだ。
(俺は御主に何も伝えてない)
思えば綾之介に対して自分の思いを左近は言葉で表した事は無かった。たしかに安土城では言葉を交わしたが、あの時の自分は間も無くこの世を去る事は避けられないと覚悟していた。だから綾之介に向けた言葉も抽象的になってしまった。
その一方、左近は安土城での綾之介の言葉が気になっていた。
(あれは情けか、それとも・・・)
綾之介は死期の迫っている自分に情けをかけていたのだろうか。
それとも本心からの言葉だったのだろうか。
どちらにしても御互い確かめた事ではないので推測の域を出る事はない。真意を確かめる為には向き合わなければならない事はわかっていた。決して逃げている訳ではないのだが、清十郎の一件はあまりにも大きかった。
今となっては日が経てば経つほど心は縛られ、容易に口を開く事が出来なくなっていた。
「すまんの、余計なことを言ってしもうた」
左近の様子を見ていた龍馬が、気の毒そうに言葉をかけてきた。
「いや、気にしないでくれ。それに御主が謝る事ではない」
だが左近の口調と表情は、世辞にも明るいとは言えなかった。
「いずれ機会を選んで話すつもりだ」
その時、左近の頭の中には藤次から言われた事が思い出されていた。
『伝えなされ、一生悔いを残す事にもなりかねませぬぞ・・・』
藤次の言葉はあの夜に聞いた時よりも、更に重みを増していた。
それを感じた左近は無意識の内に目を閉じていた。
(俺は、御主を救えなかった・・・)
同時に清十郎の事も胸中をよぎっていたのである。結局、綾之介にやらせてしまった事に深い後悔の念を左近は抱いていた。これまで言葉にした事は無かったが、厳しく自分を責める表情を抑えることは出来なかった。
そんな左近の様子に龍馬は何も言えなくなっていた。けしかけたのは自分からだったので、責任を感じていたのである。
(高見の見物はこれまでじゃな、ちっくと世話を焼いてみるか)
龍馬の心の中には邪心のない謀が企てられていた。
左近が龍馬の部屋を出て間も無く、庭に座っている綾之介が目に入った。立ち上がって振り返った手には寒椿が一輪握られていた。
赤い花を持った綾之介と、白一色の風景。
余りにも見事な組み合わせに、左近は言葉を忘れて見つめていた。綾之介も廊下に立ち止まった左近を黙って見上げていた。
暫しの沈黙が二人に流れた。相変わらず自分に向ける綾之介の表情は硬い。思えば香澄から帰ってきた綾之介が自分に笑顔を向けた事はまだ無かった。
『香澄の里へ、清十郎殿を連れて帰りたい』
そう言って綾之介は香澄へ向かった。だが清十郎の亡骸は今も葉ヶ塊にある。その為だろう、綾之介は暇を見つけては清十郎の所へ通っていた。
「清十郎殿の所へ行って来る」
先に口を開いたのは綾之介からだった。
「そうか、気をつけてな・・・」
歩き出した綾之介とすれ違った瞬間の事である。
「綾之介」
左近は綾之介を呼び止めた。自分の思いとは別に、どうしても話しておきたい事が左近にはあった。
「清十郎殿の事、忘れないでいてやれ」
「左近・・・」
綾之介は思いがけない左近の言葉に複雑な表情を浮かべた。
「俺達が死なぬ限り、清十郎殿が死ぬ事はない」
その言葉がすぐに理解できなかったらしく、綾之介は黙ったまま次の左近の言葉を待っていた。
「鳳来洞で良庵殿に教わったのだ」
「良庵殿に?」
意外な人物の名を耳にした綾之介は小首を傾げ、覗き込むような視線を自分に向けてきている。
これから話す事が心の救いになる事を祈りつつ、左近は綾之介に向って語りはじめた。
「人は二度死ぬそうだ。一度目は体の消滅による死。そしてもう一つは人の口に語られなくなり、人々の思いの中から消え去った時、それが二度目の死だそうだ」
「二度目の死・・・」
綾之介は確かめるように口にしていた。
「清十郎殿は確かに死んだ。だが二度目の死は俺達が生き続ける限り、清十郎殿に訪れる事はない」
左近はそこまで話すと綾之介に視線を移した。その表情は先刻までと異なり、何かを掴みかけている様にも見えた。
「もうすぐ陽が落ちる。暗くなるまでに戻ってきた方がいい」
綾之介は自分を見上げると、黙って頷き歩き出した。
これから先は綾之介が自分の力で立ち上がらなければならない。
迷う事もあるだろう。だが左近は綾之介ならばきっと大丈夫だと信じていた。
数日後、綾之介が部屋で休む準備をしていると訪れる人物がいた。
「綾之介殿、ちっくといいかの」
「龍馬殿?」
龍馬が自分の部屋を、それも一人で訪ねて来るなど滅多に無かった。不思議に思いつつ障子を引くと、いきなり目の前に木目が現れた。
「これは・・・」
驚きながらもよく見ると、それが唐櫃であることがわかった。
「すまん、驚かせたかの」
妙ににっこりと笑っている龍馬がいた。
「これは、何ですか」
「綾之介殿、貰ってくれんか」
龍馬は綾之介の前を通り、部屋の隅に手にしていた物を置いた。
「開けて見るがじゃ」
綾之介は龍馬に従い唐櫃の前に座ると、上蓋を持ち上げ外した。
その中には、以前の自分が当たり前のように身に着けていた物が入っていた。
「龍馬殿・・・」
綾之介は戸惑った瞳で龍馬を見上げた。
「桔梗の物じゃ。わしが持っとっても眺めることしかできん。貰ってくれ」
「でも、私は」
「綾之介殿」
何か言いかけた綾之介の言葉を龍馬は遮った。
「死んだ者を思う事は大切な事ぜよ。じゃけんどな、しっかり前を見て生きていくのも残された者の役目じゃないかの」
綾之介とてそれはわかっていた。だが龍馬から聞かされた事によって、改めてその言葉の意味を考えさせられていた。
「そいじゃ、邪魔したの」
手を振りながら龍馬は障子を閉めて去っていった。綾之介が箱の中に目をやると、桔梗らしい優しげな色合いの小袖が入っていた。
思えば最後に小袖を着たのは香澄が焦土と化した日の事だった。
(兄上・・・)
急に兄の進之助が思い出された。
嫁ぐ日まであと僅かになった日の事。身の回りの整理はとうに済ませていた。嫁に行くといっても同じ里の中。父と兄には毎日のように会えるという事はわかっていたが、それでも住み慣れた家を離れる事に寂しさを感じていた。一人になりたくて、自分の部屋に物憂げな面持ちで座っていた時の事だった。
『ここにいたのか、綾女』
『兄上』
兄の顔を見た途端に涙腺が緩むのを感じた。進之助の姿は涙ですぐに滲んでしまった。
『これはこれは、どうした事だ・・・』
『兄上・・・』
『お前はもうすぐ嫁ぐのだろう。それに、そのような顔をしていると清十郎殿を困らせてしまうではないか』
『でも兄上、寂しゅうございます』
それ以上は兄の顔を見る事が出来ず両手で顔を覆った。大粒の涙が次から次に込み上げて来る事を止められなかった。
兄が傍らに座り込む気配がした。そして自分の膝にそっと何かを置くのがわかった。
『綾女』
その声に手をようやく顔から離すと、一枚の小袖が置かれていた。
何ともいえない上気したような、美しい桜色をしていた。
『母上の物だ』
『母上の?』
『父上から頼まれた。私から渡してくれ、とな。それだけ話されると、そそくさと行ってしまわれた』
『父上から・・・』
父は寡黙で多くを語る人では無い。人の上に立って何かを行うという事は苦手としていた。代々受け継がれてきた頭領としての役目も、里の人々の支えを受けながら務めていた。けれど、その温厚な気性から皆に慕われている。兄に頼んだのもわかるような気がした。
膝に置かれた母の小袖にそっと触れた。記憶にすら残ってない、母のぬくもりが伝わってくるかのようだった。
父と兄に、また母にも心配をかけているような気がした。
『御心配かけて・・・ごめんなさい』
『清十郎殿は出来た御人だ。何も案ずる事は無い』
『はい、兄上』
だがその後は兄が暫く黙っていた。いつもと違い、ちょっと神妙な面持ちをしていた様子は今でも昨日のように思い出せる。
(思えば本当は兄上も、自分と同じような心情だったのかもしれない)
今更ながら、自分がどれだけ大切にされて育てられたかを思い知らされた。
再び龍馬から渡された唐櫃に視線を戻すと、最も上にある小袖は母の着物の色に良く似ていた。
(母上・・・)
母の着物に袖を通す事は無かった。あの日、香澄を焼き尽くした炎の中に消えてしまったことだろう。
綾之介は小袖にそっと手を伸ばし、襟元に触れようとした。
だがその手は途中で力なく、ぽとりと床の上に落ちていった。
触れる事は出来なかった。うつむくと、やがてその白く細い首を小さく横に振った。
(私は、私には)
出来ない。清十郎を殺めた自分を忘れる事はできない。
(けれど、この苦しさを・・・自分はこれからも独りで背負って生
きていく事が出来るのだろうか)
苦しい旅路になるのは間違いない。想像すらつかないこれからの事を考える綾之介を、耐え難い寂しさと苦しさが襲っていた。
自然と涙があふれそうになったが必死に押しとどめた。
弱い自分を認めたくなかった。
綾之介は床に降ろしていた手を離し、そっと自分を抱きしめた。
やがて指に込められる力は次第に強さを増していた。己が罪に苛まれ、潰れそうになる自分を何とかして支えようとしていた。
だがその時。綾之介自身、思いもよらなかった言葉が口をついて出た。
「左近・・・」
はっとした。無意識の内に左近を呼んでいた。
そう、自分はわかっている。心の奥底に、幾重にも隠している本当の思い。けれど罪悪感が歯止めをかける。
(罪を、犯した過ちをどう償えばよいのだろうか)
涙が再びこぼれそうになった綾之介は、自分の唇を強く噛んで耐えるしかなかった。
いま静かに戦いが始まろうとしている。
姿を現すことの無い、最後にして最強の敵。
それは自分の心。
綾之介は、己を乗り越えなければならない戦いが待っていた。(第六話 終)
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